テストの回答その2『水』

小説は祐子の頭の中で鮮やかな情景とともに膨らんでいた。目の前には暗く輝く水面が果てしなく続き、空との境界線がくっきりと一本の線で視界を二分している。じっと白紙の原稿に肘をつき、組み合わせた両手に顎をのせた姿で目をつぶり、あたかもその水の上を裸足でゆっくり歩いているような心象に酔っていた。

「薬は飲んだのか。」

背後から低い夫の声が輝く海原を打ち砕く。妻を心配しながらも、この数年間、何が原因ともわからない彼女の激しい情緒の浮き沈みに少なからずも感じ始めていた疲労がその声の底辺を静かに湛えている。彼女は不意に飛び込んだ現実というもう一つの世界に一瞬めまいを感じうろたえた。そして絞り出すように「うん。今日は落ち着いてるみたい。」と答えた。

ベッド際のテーブルには催眠剤の小瓶が封も切られずに放り出されている。

「今日は天気もいいから、河原まで散歩にでもいくか。」

ため息を静かに呑み込んで、夫は妻の後ろ姿にそう話しかけた。

「そうね。でも今日は芦屋の叔母さまがみえるわ。それに…」

「そうか。じゃあ昼飯でも食いにいかないか。たまには…」

「それに、原稿の出だしが書けそうな気がするの。」

そう言いながらゆっくりと夫の立っている方へ首を傾けた彼女の瞳が、静かに、そして頑なに彼を拒んでいるように夫には思えた。くるりと向きを変え妻に背を向けたところで力なく「そうか。」とだけ言い残し、夫は寝室を出た。

 

芦屋の叔母さまとは、由緒ある藤井家に嫁いだ父の姉のことである。藤井家の娘、つまり祐子のいとこ郁とは年の頃も近く、子供のころから夏休み毎に顔を合わせている。二人とも大学を出てそれぞれに仕事だの留学だのと環境が変わってしまってからは、特に連絡を取り合うこともなく、こうやって叔母が訪ねてくる時に顔を合わすくらいになっていた。

郁のことは嫌いではなかった。ただ、次から次へと関心が移ろいで行く様子は祐子とは対照的で、歌うように話すその話し方に祐子は苛立ちをおぼえることも時折あった。

にわかに玄関のほうから来訪者の到着が、こもった録音テープのように聞こえてきた。それまで両耳を気ままに覆っていた長い髪を後ろで結わえカーディガンを羽織り、ゆっくりと寝室を出たのは午後一時を過ぎたころだった。

「あら、祐子さん。とてもお元気そうじゃない。」

叔母はあまり表情を変えることなく、少しよそ行きの声で軽く会釈した。

「ご無沙汰しております。ええ、今日はとても気分がすぐれますの。叔母さまも郁さんもお変わりなさそうですね。」

「ごめんなさい、予定していたバレエが急にキャンセルになっちゃって。思っていたより早くに着いてしまったもんだから。」

叔母の後ろに半分隠れるように立っていた郁が母親の脇から顔を突き出すようにして笑って見せた。ふと祐子は全身があの深い碧色の水で満たされる様子を想像した。素肌を撫でる心地よい風や柔らかな太陽の光など及びもしない、崇高な内なる快感を覚え、微かに身震いするほどだった。

しばらく叔母と郁の他愛ない芦屋事情に耳を傾け、ひとしきりの「お見舞い」儀礼に付き合いながら、祐子はけらけらと話す郁を見るたびに、あの碧い水の感覚を確かめていた。

 

二人が去り再び静寂が戻った頃には、祐子の心は渇ききっていた。今日までの一日一日が何か未完成のまま置き去りにされてきていたように思えてならなかった。何かを欲していながら満たされないことを承知している内なる自分が、身体を満たしたあの水に押し上げられ、感覚的にその居場所を明らかにしたかのようだった。美しいものへの憧れだと決めつけていた水の女神への崇拝感情は、ベラがあのコートを脱ぎ捨てた瞬間に実はその本質を露わにしていたはずであったのに、自らそれと気づかぬうちに別の、流行りのコートを着せて美化していたにすぎなかったのだ。

潤いはあの女神像にしか見いだされなかった。現実の世界の何物もそれに取って代わることはできない。見る見るうちに心の中心に暗く深い淵が現れ、祐子はその中に吸い込まれていく。淵の水は肌を突き刺すように刺激し、今まで想像していたような柔らかに包み込む感覚はない。それでも祐子は淵から出ようとはしなかった。この水が彼女に残された唯一の居場所だったのだ。

 * * * * *

「どうして河原へなんて言ってしまったんだろう。」

捜索願を出して三日後、引き揚げられた遺体の確認のため安置所に向かう夫には、真実は明らかになることはない。

Advertisements

About Dr Kats

a working sociologist/linguist/translator based in Odawara, Japan
This entry was posted in 日本語ブログ. Bookmark the permalink.

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s