庭 – 考察

あじさいって、いろいろ隠れ話がありますが。ちなみに、一般に普及しているあじさいは、日本人の作り出したものって知ってました?もともと野生のあじさいは、今で言う額縁あじさいがそうで、しかも花ももっと小さいものだそうです。それを、真ん中の部分も周りと同じように大きく咲くように改良したのが、日本人だそうです。こちらでも、あじさいは人気のある庭園植物の一つですが、ガーデンセンターなどにいくと、なんとなく「日本産」という植物に出くわします。紅葉(もみじ)もその一つです。それからあじさいのもう一つの話は、花は真ん中の小さいのが花で、花びらの様にみえる部分は「額」だそうです。そういうのはいっぱいあって、チューリップも、花びらのうちの三枚は花びらで、残りの三枚は額だったり、百合も同じです。そういうのを知るにつけ、自然というものは知的な存在なんだなとおもわざるを得ませんな。

ちなみにイギリス人と庭園についてですが、「ガーデニング」という言葉自体、イギリス人にとって親しみのある言葉です。この数年では、一般の人にも、はやりの様に使われます。特にガーデニングが好きなひとのことを「グリーンフィンガー」と呼びます。感覚的には、日本人が「家の親父は盆栽やってる」って言うようなところでしょうか。まぁ今では死語かも知れませんが、盆栽って結構普通の人もやってるし、楽しんでやってるし、ある程度の知識と技術がいるし、ある意味誇りをもってやってるし。。。 そういう意味合いが、こっちで言う「ガーデニングをやってる」っていう言葉にふくまれている様に感じます。実際、庭木や植物に関する知識もかなり持っているようです。植物の名前だけでなく、どういう地質に合っているか、日陰や日向を好む植物、また近所の庭に植えてある珍しい植物など知ってる人は結構います。「庭園」っていっちゃうとすこし堅苦しい感じがしますが、「箱庭」とか「盆栽」程度の感じで、それを裏庭全体を使ってやってるってところでしょうかね。

ちなみに、こちらの人は、庭に花を植えるということには、かなりの情熱をもってやってるようです。それは結構19世紀ぐらいからの伝統のようですね。家を飾ることが、周りの環境というか、見て美しいという観点から、自分の土地は自分で飾り、みんながそうすることによって町全体が美しく見える、という考えが、心のどこかにあるようです。なので、ちょっと見すぼらしい長屋の様な所でも、玄関前に植木鉢に花を植えてあったりする、というのは珍しくありません。ちなみに、前回帰国した際に、奈良の地元で、同じように植木鉢で玄関先を飾っている家が多いのに気づき、これは最近の「ガーデニングブーム」の現れかな、と思いました。話を戻すと、おそらく日本人的感覚の「庭」は、個人が楽しむもの、イギリスでは個人も他人も楽しませる、という基本的違いがあるように思います。だからといって日本人は自己中心的だ、という訳ではありませんが。

それと関連して、こちらでは家の中に花を飾る、という習慣があまりありません。歴史的には、貴族は花を飾りましたが、美しくするというよりも、家の富を見せつける、という意味合いが強かったようです。だから、チューリップ専用の花瓶がありますが、チューリップという花は、昔、入手困難であり、しかもチューリップ市場というものまででてくるほど、金銭的価値のあるものでした。だから、お金持ちは先物取引のようにチューリップを扱い、どっと買って飾ることで「どうだ」ってな感じだったようです。だから、昔の人の肖像画には、その背景にチューリップが頻繁に登場した時期があります。それに対して、日本人は花を家の中に活ける行為に、自然の美を生活空間に引き込むという観念があったのでは、と思います。そして、それをすることによって得られる効果にたいして、無意識でありながら、その恩恵を楽しむことを続けてきたのではないでしょうか。こちらでは、外の自然を生活空間に引き込む、という概念が最近になって使われるようになりました。特に、家を建てる、または改築する時に、窓を大きくもうけたりするのですが、それによって「外(例:庭)のスペースが部屋にいながらにして一体となって感じますね」みたいなコメントがよく使われます。

おそらく、日本人の「庭」という概念と、西洋のそれとは根本的に違うんでしょうね。しかし、今の日本の「ガーデン」は西洋に大きく影響されている、というのもしかりだと思います。とにかく西洋風、というものに大きな価値をおきがちな現代日本人ですから。なにか大々的にする時にはなんとなく西洋の形をまねたほうがスケールが大きいという安易な考えが根本的にあるのではないでしょうか。然し、日本文化を考える上で忘れてはならないのは、世界大戦前後で大きな違いがあることです。戦後は日本人は余裕がありませんでした。明治維新いらい、西洋の全てを日本のそれまでの様式ととりかえっこしてしまったために、日本独特の、長年培われてきたものを全て取り払い、形式だけ西洋から取り入れたために、なんとなく嘘もののような社会システムが構築されてしまいました。その薄っぺらな骨組みのうえに成り立つ現代日本文化は、やはり薄っぺらな感じがあります。そういう時代に生まれ育ってきた我々としては、つくりものをするという姿を見ずにきただけの様にも思われます。

しかし、明治維新までの日本では、物を作るということについて、かなり違った姿があったのでは、と推測します。ちなみに、モアさんの指摘する雪月花の心ですが、西洋と日本の自然観のちがいですね。根本的に西洋は、「自然」を「物」と見ます。そのために、自然は人間の手で征服できるもの、という考えが生まれ、庭を作るにしても、自然の物を「使って」形作ることに力を注ぎます。そこには、人間の力に絶対的価値がおかれます。それに対して、日本では「自然」のなかに、なんとなく「生命」を認めるので、「生き物」として、つまり「同胞」として扱う感があるのでしょうね。だから、自然の成長とか動きなんかを考慮して接していく。「手を入れる」というのではなく「手をそえる」っていう感じでしょうか、理想的には。その感覚を失ったところで、「西洋化された」という感覚をうけるのではないでしょうか。憶測ですが。

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About Dr Kats

a working sociologist/linguist/translator based in Odawara, Japan
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